碧柘榴庵

-aozakuro an- ロックと映画と猫を愛する文字書きのブログです。

外国に憧れ続けている私。

 新型コロナウイルスの影響で、休校中である子供の預け先に困ったり、子供だけで留守番させざるを得なかったりと大変そうな話をよく聞く最近だが――昔、たぶん二十数年か三十年ほど前までは、今ほどきちんと子供が護られていなかったような気がする。今が過保護だとか、最近の子供がしっかりしていないのだなどと云うつもりはない。おそらく昔は今よりも、子供だけで過ごしているが故に起きた事故なども多かっただろう。それでも鍵っ子と呼ばれる子は珍しくなかったし、友達の家に遊びに行ったとき自分たち以外誰もいないこともけっこうあった。

 私自身も、両親が仕事をしているあいだひとりで過ごすことが常だった。それも夜、暗くなってからのことだ。

 住んでいるマンションの二階にあるテナントで、両親は炉端焼を売りにした一杯呑屋をやっていた。店は五時から開けていて、近くにはどこかの会社の寮があったからか、夕飯を兼ねて毎日のように来る常連さんも多かった。両親はひとりっこの私のために店から四階の自宅までインターホンをひいてくれた。インターホンといってもドアホンではなく、電話機と電話機を有線で繋いだようなものだ。まだ携帯電話もなにもない時代――マンションの外壁にケーブルを這わせ、受話器を取ってボタンを押すだけですぐに繋がるインターホンは、確かに多少の安心感を私にくれた。

 だが、八歳かそこらの子供とはいえ、毎日のことであればひとりで過ごすのにも慣れてくる。

  もともと小さい頃から本が大好きで、両親はひとりで過ごす時間が長い私のためにいろいろな本を揃えてくれていた。イソップやグリムなどの童話と、ディズニーの絵本のシリーズや、児童向けの世界名作全集、原色図鑑などなど、部屋の壁一面を埋める大きな本棚には有りと有らゆる本がびっしりと詰まっていた。が、残念なことに本は何度も読んでいれば飽きてしまう。当然のように、私の暇潰しはTVを視ることになっていった。
 日中の留守番ならきっと違っていただろう。が、私がひとりなのは夜、ゴールデンタイムを含む時間帯だった。クイズ番組、お笑い、刑事ドラマ、そして大人向けの深夜番組。私は布団を敷いたあともずっと、TVをつけたままいろいろな番組を視た。時間はたっぷりあった――店を閉め、親が戻ってくるのは深夜の三時過ぎか、四時頃だった。
 そのうち、生活リズムが変わり始めた。学校で疲れるからなのか単純に寝不足なのか、帰ってきて夕飯を食べたあと、宿題をしてTVを眺めているあいだに眠ってしまう。そして、九時頃に目が覚めたりする。好きな洋画をやっていたりするとそれを視て、まだそのあとも眠気はこない。十一時を過ぎ、零時を過ぎ――その時間帯によくやっていたのは、海外ドラマの再放送だ。
 〈トワイライト・ゾーン〉、〈ヒッチコック劇場〉、〈スパイ大作戦〉、〈コンバット!〉、〈ロックフォードの事件メモ〉など、私は日本のものとはまったく違う軽妙な台詞やガンファイトや、奇妙でぞくぞくする話に夢中になった。ちょうどシャーロック・ホームズなどミステリにハマり始めた頃でもあり、ねだれば必ず買ってもらえる本はドイルを始めクリスティやクイーン、カーなど、海外の古典ミステリばかりになった。そしてTVでは、欠かさず洋画や海外のドラマを視るようになった。

 おまけに――十歳の頃だったと思うが、偶々聴いていたラジオでビートルズを知った。

 それまで、音楽といえば両親が好むラテンやタンゴ、映画音楽など、所謂イージーリスニングというやつしか聴くことはなかった。学校ではみんなアイドルの歌う歌謡曲に夢中になっていたが、私は店の有線放送で聞き慣れていた所為かどちらかというと演歌が好きで、軽い伴奏に乗せて歌う、たいして巧くも聞こえないアイドルにはどうしても馴染めなかった。
 そんなとき“プリーズ・ミスター・ポストマン”を聴いて、私はがつんと頭に一発喰らったような衝撃を感じた。なんだこれは。なんだかすごくがちゃがちゃ煩いのに、すごくわくわくする。楽しい、血が騒ぐ。そんな感じだった。そして、それからどんどん自分が生まれるよりずっと前の、旧き良き時代のロックやR&Bにハマっていった。ビートルズゾンビーズビーチボーイズ。映画〈アメリカン・グラフィティ〉のサウンドトラック。当時京都に住んでいた私は、偶に母と出かけるたびに JEUGIA というレコードショップに連れていってもらい、コレクションを増やしていった。
 バディ・ホリーチャック・ベリー、フラミンゴスプラターズ。毎晩繰り返し針を落とし、溝が擦りきれるほどレコードを聴いた。当時は国内盤を買っていたので、ほとんどのレコードにはジャケットと同じ大きなサイズのブックレットに英語の歌詞と、日本語訳が載っていた。角が丸まり、折り目がつき、そこから裂けるように破れ、貼ったセロハンテープが黄色くなるまで、私は歌詞を睨みながら何度も何度も繰り返しレコードを聴いた。十二歳になる頃にはビートルズは全曲なにも見ずに英語で歌えるようになり、新しく買ったアルバムの曲の歌詞も、初見ですらすらと読めるようになっていた。何度も視たことのある洋画を副音声に切り替えて視てみると、半分くらいは台詞を聞き取ることもできた。

 中学に上がる前。セーラー服を着なければならないのは厭だったが、私は英語の授業が始まるのをとても楽しみにしていた。

 けれど、中学校は散々だった。まず、周囲とまるで話が合わない。小学生のときはまだ、推理クイズやオカルト、車やバイク、モデルガンなどの話で男子と楽しめていた。近所の空き地で演習玉ピストルという、紙火薬をパァン!! と鳴らして遊ぶものを持ち寄って刑事ごっこをしたりもした。少量とはいえ本物の火薬が使われていたので、撃ったあとは煙が立ち火薬の爆ぜた匂いがした。男の子たちと一緒になって、私はそれにとても興奮していた。
 だが中学生になった途端、男の子とは口も利いてはいけないような空気になった。しょうがないので声をかけてきた女の子たちと話す。話題といえばアイドル、少女漫画、日本のドラマなどだ。私はまったく話についていけなかったし、私の話には誰も興味を示さなかった。そして当然のごとく、孤立した。
 そのうえ、楽しみにしていた英語の授業は思っていたのとはかなり違った。まず、曲名などをカセットテープのインデックスカードに書き込むことで書き慣れていた私のアルファベットはお手本とは程遠く、先生に何度も注意された。教科書に印刷されている丸と棒で構成されているような、あのまんまの文字を書くようにと云われたのだ。従いはしたが、宿題でたくさん書かなければならないときはついつい、後のほうになるほどさらさらと繋がり気味に書いてしまい、それはすべて×にされた。
 そして音読の順番がまわってきたとき。緊張しながらもすらすらと読むことができてほっと席に着いた途端、くすくすと皆に笑われた。なにがおかしかったのだろうと小首を傾げていると、あとから「ガイジンみたいで変~」と云われた。意味がわからなかった。
 そして、その次にまた皆の前で教科書を読んだとき。今度は先生に注意された――「want to」や「want a」を「wanna」、「got to」を「gotta」と発音してはいけないと。私はそうしているつもりはなかったし、書いてあるとおりの発音をどうすればいいのかもよくわからなかった。先生に訊いてみたが、先生は英語を話せなかった。
 そして私は英語の授業が厭になり、学校も嫌いになった。まあ、学校が嫌いになった理由は他にもいろいろとあるのだけれど。

 そんな感じで、結局英語をきちんと学びはしなかったので、私はすごく中途半端な英語力しかないままである。旅行先でそれほど困らない程度、というくらいだ。せめてちゃんと英会話教室などに通えていればよかったのだが、中学を卒業する少し前に両親が店を潰してしまい、貧乏暮らしになったのでそれも叶わなかった。高校にすら行っていない。

 ところで話は変わって、少し時間を戻して十歳か、十一歳くらいの頃のこと。
 その頃、毎年のように夏休みには家族三人で温泉旅行をしていた。お盆休みと日にちをずらし、混んでない時期に泊まることができるのは自営業ならではである。毎年同じホテルに泊まっていたのですっかり慣れていた私は、日頃の疲れを癒やすように部屋でのんびりと寛いでいた両親と離れ、ひとりで外にあるプールへと向かった。泳げなかった私はいつも子供用の浅いプールにしか入らなかったし、いちおう浮き輪も持っていたから、両親もなにも心配せずかまへんよ、行ってきぃーと呑気なものだった。
 通常チェックイン前の、二時過ぎという時間の所為かプールにはほとんど人影はなかった。そこにいたのは我が家と同じ連泊なのだろう、サングラスをかけた金髪の女の人とお腹まで毛むくじゃらなおじさん、そしてほっそりと背の高い男の子という、外国人の家族が一組だけだった。
 その家族のほうを気にしつつ、私は子供用のプールでぱちゃぱちゃと遊び始めた。が、なんだかそれが恥ずかしくなって、浮き輪をつけて深いほうのプールに移動した。入ってみるとちゃんと足は着いたし、なんだ、大丈夫だと思った。水泳の授業で少しは泳げるようになったときでもあり、私は浮き輪をとり、どこまで行けるかなと泳ぎの練習を始めた。そして、プールの真ん中あたりで足が着かないことに焦り、溺れた。
 懸命にもがき、水を掻いて暴れ、ますます沈む。あっだめだ、息を止めて浮かなきゃ……と、体勢を立て直して再度泳ごうとするが、それができるなら溺れていない。もがく、沈む、一瞬浮く、沈む……それを繰り返している途中、金髪さんたちがプールサイドを去って行くのが見えた。
 ――あ、死ぬ。
 そう思った次の瞬間、私は必死で「Help!!」と叫んでいた。記憶では確か、二回は云えた覚えがある。そのあとはもう、水の中だ。
 気がつくと私は水中から引き上げられていた。プールサイドで男の子――たぶん十四、五歳くらいだったと思う――が「Are you all right?」と私の顔を覗きこんでいて、熊、もとい毛深いお父さんらしき人が水を吐く私の背中を摩ってくれていた。私は「I'm okay, thank you so much. You saved my life, thank you……」と、ひたすら繰り返した。サングラスをとるとすごく美人だったお母さんは、部屋まで送ってくれたとき私の両親に身振り手振りでいろいろ云ってくれていた。たぶん、いちおう医者に診せろということと、ひとりでプールに行かせるなと懸命に伝えようとしてくれていたのだと思う。あまりよく聞き取れなかったので、おそらく英語圏の人たちではなかったのだろう。けれど、それでも。片言でも英語が話せてよかったと思う。お礼が云えてよかったと。それに――

 ひょっとしたら、英語が好きじゃなかったら私は今此処に存在していないかもしれないし。

 「わたしと英語」かあ、トラブルを乗り越えたエピソード、ねえ……と考えて、いろいろ思いだしながら書いてみたが、思いの外ぞっとしない話ばかりになってしまった。
 私の外国かぶれはまったく治っておらず、というかますます悪化(?)していて、英語で冗談を交えた会話ができるくらいぺらぺらだったらなあと未だに憧れている。スペイン語やドイツ語、チェコ語などにも興味はあるが、やはりまずは英語ができなければ話にならないのだろうな、と思う。
 今はちょっと時間に余裕がないけれど、これ以上脳が老化する前にちゃんと英会話の勉強、しようかなあ、したいなあなどと考えつつ、そういえばこのトーキングマラソンってどんなん? と紹介ページを見てみた。どうやら会話をまるごと覚えてしまうタイプのアプリらしい。文法がだめでリスニングと発音はまあまあ自信のある私には向いているかもしれない。洋楽の歌詞と映画で覚えてるのとそう変わらないし。

 

 

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