碧柘榴庵

-aozakuro an- ロックと映画と猫を愛する文字書きのブログです。

書きたいものしか書けない。

 私は、自分のために、自分が読みたい小説を書いている。

 海外が舞台で、作中に流れるのは六〇年代、七〇年代の旧いロック。もちろんキャラクターたちも日本人ではなく、食べものやお酒など、その舞台のものをどんどん登場させてリアリティを出す。
 現実の日本が舞台のラブコメや、テンプレートのようなものが存在し、だいたいのパターンからそれぞれ工夫して書かれる、所謂異世界ものなどはざっと見た感じ、まず一人称で書かれているものが多い所為もあるとは思うけれど、あまり背景などの描写に力が入れられていない気がする(もちろん例外はあると思う。私は好んで読むことはなく、ざっと見た印象の話でしかないのであしからず)。が、そういうものはそれでも読めるのだ。読む側の脳内にぱっと引き出せる、共通するデータがあるからである。
 特にチェコなど、あまりTVの旅行番組などでも取りあげられない国の場合、書き手の描写が担うところは大きいと思う。そして、どんなに頑張って書いても、そういうところで「わかりづらい」「とっつきにくい」「興味がない」と、先ず読もうとも思わない層というのはあるだろうなと思う。

  音楽についても同様で、今まで拙作を読んで気に入ってくれた人のなかには偶々そういう旧いロックなども聴く人がいて、ラストシーンを読みながらちゃんと頭の中で曲を流してくれ、感動したと云ってもらったこともある。――しかし、そんな同士は稀である。
 ほとんどの人が音楽を消耗品扱いするなかで、洋楽を聴く人は少なく、この時代にロックを聴く人は更に少ない。ましてや、今から六十年も前の音楽を好んで聴く者など滅多にいない。年齢的に多少知っているという人はいても、未だに毎日のようにそればかり聴いているとなると、まあマニアかド偏屈のどちらかだろう。だから、私の書いているものがピンとこなくてもしょうがない。

 それでも、私のそんな趣味全開の作品を少しだけでも読んでくれた人はいて、そのなかには文章を褒めてくれる人がけっこういる。素直に嬉しい。そして、優しいその人は云うのだ――上手いから、もったいないと。
 もちろん心からそう云ってくれていることはわかる。ありがたいと思う。思うから、私は申し訳ない気持ちになる。
『たくさんの人に読んでもらえるような物語』は、私には書けそうにないからだ。

 自分で書いた物語を誰かが読んでくれて、感想など反応をもらうと、とても嬉しい。自分が生みだしたキャラクターについて、○○だったらこんなこと云いそうだね、あのシーン、○○らしいね、なんて云われると、ああもう私の頭の中から飛びだして生きてるんだなあと、まるで子供が巣立っていったような心地になる。
 そこまでではなくても、おもしろいとかハラハラするとか、自分が書いたもので人の心を揺さぶれたと思うと、なんともいえない充足感がある。自信だって漲ってくる。
 けれど、内容が万人に受けるものではないので、そういう人が読み終わって去っていくと途端にPVの数字が動かなくなる。そうなると、やはり寂しいし、気分だって凹む。

 だけど、だからといって自分が好きでもないものや、読んだこともないジャンルのものも書くことはできないし、書こうとも思わない。
 そして、思いだすのだ。
 そうだ、これはもともと自分のために書いたものなのだから、と。

 私の書く小説は、十万人が目にしたとしても、そのうちの五人ほどしか開くことはないだろう。でも、そのなかの三人ほどが読んでくれて、その三人のうちひとりかふたりは、私の頭の中にあるのと同じような情景と音楽を、きっと思い浮かべてくれる。私はそれで充分だ。

 もしも私が日本を舞台に、ロックも古典ミステリも出てこない流行りに乗ったわかりやすい小説を書いたとして、それが10万PVくらいいったら? と、想像――してみようと思ったが、それすらできなかった。それがどんな小説なのか、書いてるときなにが楽しいのかさっぱり思い浮かばない。それだけの人に読んでもらえば嬉しいだろうとは思うのだが、次に考えることといえば、それだけの読者がいる状態で海外のロックバンドの話書けばいいんじゃね? なんてことだし。
 うん、だめだな。私にはやっぱり、書きたいものしか書けない。